北の大地 北海道生まれ 

私は生まれも育ちも北海道です。
兄弟のいない一人っ子です。
幼稚園の頃から母が入退院の繰り返しで、私が17歳の時から30年以上の入院生活です。
内臓系の病気に加え、精神的にも病んでいました。

一人ぼっちの幼少期

家に母がいて一人ぼっちではない時でも、いつも孤独を感じました。

母はいつもソファで横になっていて、たまに起きて家事をしている時をみはからって「遊ぼう」と言ってみても叶うことはなかったからです。

一度だけ作ってもらった「ミルクセーキ」をまた飲みたくて、「また作って」とお願いしても「残すでしょ」と突き放され、「残さないから」と懇願しても聞き入れてもらえませんでした。

ソファで横になっている母がいる、一人ではない家の中で、私はお人形を相手に話かけたり本を読んだりしており、一人ぼっちで孤独を感じていました。

読書する子

あとになってから分かったのですが、母はつわりの時期だったようです。
のちに死産しましたが・・・。

母が入院している時は祖父母の家に住み、祖父母の家から幼稚園に通っていました。

花札をして遊んだり会話もたくさんあったので、数ヶ月ほどあった祖父母の家での生活が唯一楽しい、一人ぼっちじゃない時だったといえます。

小中学時代には階段を下りていくとテレビの音と母を責める父の声が聞こえ、途中で部屋に引き戻ることが多々あり、嫌悪感が募る日々でした。

7.5畳の自分の部屋はテレビもストーブもありましたが、いつも一人で話し相手もいなく、孤独でした。

孤独な子

必要なものがあるか聞かれることもなく、欲しいものがあっても訴えることもせず、親子としての会話や思いやりは感じられることがありませんでした。

友人の輪の中で感じ続けた孤独感

友達もいる学校は家に帰りたくないと思うほど好きでしたが、高校生活ではさらに孤独を感じました。

みんなが当たり前に親にしてもらっていることが、私は全て自分でしなければならなかったからです。

その一つがお弁当です。

「今日はこんなに好きなものばかり」で嬉しいとか「また同じのが入ってる」と不満を言ったりしてますが、みんなは母親に毎日作ってもらっています。

私は毎朝早起きをして、自分で作らなけばいけませんでした。

どうしても朝起きるのが辛くて、週の半分はパンを買ってすませることも多々ありました。

「お母さんに教えてもらって作ってみたの」と言って見せてくる子もいました。

私は母親に教えてもらったことは一度もありません。

料理も裁縫も家庭科と、他は本から学ぶしかありませんでした。

「自分は仕方がないのだ」ということも、「自分より苦労している人は他にもたくさんいるんだ」ということも、頭では分かっています。

分かってはいるのですが時折、封印しているはずなのに心の底からあふれてくるのです。
「なんで私だけ?」
「みんなが当たり前にしていることが私だけ、なんで当たり前じゃないの?」

孤独な子

嫉妬や羨望の波にのまれながらも、「今経験していることは将来の糧になるはずだ」と自分を励ましながら「早く大人になりたい」と思って過ごした高校時代でした。

短大を卒業後はバブル絶頂期。
就職した後も「自分はどんなことができるんだろう」と探求しました。

「どんな仕事なのか経験してみたい」と気持ちのおもむくまま、
食品会社の開発部、キーパンチャー、教材の訪問販売、事務職などに転職しました。

探求してる最中ですが、結婚と妊娠をきっかけに専業主婦になり、社会人としての一区切りがつきました。

シングルになってから再スタート

シングルになって仕事をすることになった時は、自分がいかに何の取り柄もないかを痛感しました。

あれこれ転職しましたが、それが就職に結びつくことが一つもなかったからです。

子供が小さいうちはできるだけ一緒に過ごす時間が持ちたかったので、「時間短縮で働ける飲食店のパート勤めをして貯金を切り崩す生活」を選択するしかありませんでした。

「私が幼少期に感じた思いを息子にはさせたくない」
という想いからです。

飲食店は土日なども働けることを条件とするところが多かったのですが事情を話して、平日のみの勤務で土日祝や長期休みをとらせてもらうことで、働かせてもらうことができました。

わがままを理解してくれた職場ですがら、私も私なりにできることを精一杯しようとしている中で、一時期困ったことが起こりました。

息子が5歳の時、水ぼうそうにかかってしまい、5日間自宅養生を余儀なくされたのです。
そのうち3日はシフトが入っています。

飲食店は平日でもランチタイムはギリギリの人数でまわすため、欠員が出るとカバーするための負担が増して、大変になることがありありとわかります。

「休ませてください」と言えば休むことはできますが、ただでさえわがままをきいてもらってる職場に、私は言えませんでした。

苦渋の決断で、息子には9時から14時まで一人留守番をさせることにしました。

おやつや手紙やおもちゃをあちこちに隠し、セットをして・・・。

職場には事情を話していたので、仕事中何度もかかってくる電話をみんな文句も言わずつないでくれました。

電話のたびに息子は「まだ?」と聞いてきました。

電話

決して泣かず、
「帰ってきて」
とわがままを言うこともなく、ただただ「寂しくなった」のだと思います。

「押入れの中青箱の中見てごらん」
と言って電話を切り、おもちゃやおやつを見つけ出させて、寂しさを紛らわせてやりました。電話のたびに。

何度も何度もかかってくる電話を片手に、接客から裏手に回って鉄板の焼き物をしたりしました。

「帰っていいよ」とは誰一人言いませんが、
「せめて電話だけでも」というみんなの気持ちはよくわかります。

数年後に閉店となりそれっきりですが、理解と協力をしてくれた職場の方々への感謝と胸の奥が切なくなる想いが一緒に、懐かしく思い出されます。

その後は他の飲食店へ転職し、子供の成長に合わせてフルタイムで勤務できる仕事に変えていきました。

やりたい仕事にはつけず、食べていくためには仕事は選べないので、土日祝日休みの条件だけで工場勤務を選んでいきました。

私の勤務経歴書を見て、現場の作業から事務職に、パートから正社員へと引き上げられたのが現在の食品会社です。

「自分にはなんの取り柄もない」と思っていましたが、今までの転職して経験してきたことすべてが価値ある経験だったと思えるようになりました。

おかげさまでやりがいのある仕事に恵まれ、役職を担って邁進しています。

子育てが一番のやりがい

私にとって両親は反面教師で、自分は「明るい家庭を持ちたい」「自分の子供には同じような思いはさせたくない」と思っていました。
そんな思いとは裏腹に、幸せな結婚生活も4年で終えることになってしまいましたが・・・

片親でもなんとか「寂しい思いをさせず」「肩身の狭い思いをさせず」育てたいと強く思いました。
今まで打ち込むことがなかった私にとって、一生懸命になったのが「子育て」でした。

元旦那が幼少の頃病弱だったことを聞いていたので、とにかく「健康に育つように」心がけました。
赤ちゃんの頃から外気に触れて免疫力がつくように、日に2度でも3度でも散歩に出かけました。

男の子なので運動機能を発達させるために、いろんな遊具を体験させました。半径40kmのありとあらゆる公園に連れて行きました。私と違って人見知りせず、すぐに友達を作れる息子だったので、いく先々でいろんなお友達と遊ばせました。

幼稚園や小学低学年の時は、息子の親が私だとわかると、いろんなママたちが声をかけてくれました。
特に女の子のママたちから、「仲良くしてくれた」「優しくしてくれた」など、声をかけてくれました。

息子のおかげで友達作りが自然にできて、とても助かりました。

野球との出会い

小2の頃「野球がやりたい」と言い出し、とても困りました。

お金がかかることと、休みの日も当番やいろいろや役割を担わなければならなかったからです。

しかも野球は大嫌いでした。

子供の頃土曜のナイターで「8時だよ全員集合」が見れなくなるたび、野球なんかなければいいのに!と憎らしく思ってたほどです。

「子供のやりたいことはやらせたい」気持ちと、「苦手だし気が重い」という気持ちのはざまでした。

とは言え、「”ごく普通の家庭”と言うものを息子から取り上げてしまった」ということを考えると、反対などできませんでした。

「すべては息子のため」と思って進んだ一歩が、私の人生にも大きな影響を与えました。

渋々行ったグランドで必死にボールを追いかけ、野球を楽しんでいる姿を見ると、応援せずにはいられませんでした。

試合も多くなると頻繁に通うようになり、顔をあわせるほど親同士も打ち解け仲良くなっていくことができました。

少年団には苦手意識を持ってましたが、
「子供を応援したい人たちの集まり」なんだと知りました。

親同士が仲良くなると、子供同士もどんどん仲良くなりました。

試合のたびに反省会で飲み会をし、優勝をすれば祝勝会をする、何かなくても理由をつけて飲み会をして集まるほどでした。

やがて休日のほとんどは、野球に時間をさきました。

いつの間にか「義務」から「やりがい」に変わっていったのです。

お友達の親もコーチも、まるで自分の子供のように息子に愛情を注いでくれました。

特に父親がいない分、お友達の父親やコーチが接してくれる機会は、息子にとってかけがいのない経験になったと思います。

息子のおかげで野球の楽しさを知りました。

そして同志の仲間ができました。

大人になってからこんな素敵な仲間が得られるとは、思ってもみませんでした。

幸せなことに今でも、年に2回は必ず集まる交友関係が続いています。

野球が「楽しい」から「過酷」へ

高校に入ると「楽しい」から「過酷」に変わりました。

ちょうどその頃、会社で男性社員が2名退職してしまい、仕事の負荷が大きくかかってきた時でした。

野球ボール

 4時半に起きて始発に乗る息子を送り出し、残業で20時過ぎに帰り、泥だらけのユニホームを洗い、22時過ぎに帰宅する息子に夕食を作る毎日でした。そんな中、息子は腰椎分離症になり、3ヶ月の休養を余儀なくされました。自分は練習できない中、仲間のために早朝練習から補佐にまわり、夜遅くまで裏方の仕事に徹しました。

幼少期のタンパク質が足りなかったからだろうか、自分の責任が大きいのではないかと後悔の想いが湧いてきました。

同じ辛くて苦しい練習をしても、腰椎分離症にならない子もいるからです。

息子の他にも腰椎分離症になった子がいましたが、同じ母子家庭の子でした。

「やっぱり栄養やタンパク質が不足していたからなったのではないか」
「そうに違いない」

私は息子に泣きながら詫びました。

息子は「そんなことは関係ない」「関係していたとしてもあきらめないから気にしなくていい」と言ってくれました。

責められないこともつらかったけれど、「1番つらいのは野球が思うようにできない息子自身なのだから、メソメソしていないで全力で応援しよう」と必死に切り替える努力をしました。

3ヶ月休養をしても骨が付くことはなく、腰椎分離症は治りませんでした。

「後悔したくないから治らなくても野球をする」という息子の意思は固く、運動療法という名目で筋トレと練習を復活させました。

もしも無理がかかれば大手術になる可能性もあることが心配で、すぐに賛成することができませんでしたが、たかが私の一存で息子の希望を取り上げるなんてできやしません。

私にできることは「全力で応援すること」しかないので、息子の意思を尊重することにしました。

決して諦めることなく、グチもこぼさず、ひたむきに頑張る息子の姿は、私にとって何ものにも変えがたい原動力の源になりました。

残業続きでも、泥だらけの洗濯で寝る時間が減っても、朝起きるのが辛くても「息子のつらさに比べたらまだまだ」と思えました。

共に走り続けた結果、息子は夏の大会のベンチ入りを果たすことができました。

私は教えられました。

全てが絶望に思えた時でも、先が見えなくても、あきらめなければ「努力は報われる」ことを。

父が証券詐欺で借金発覚

息子が大学生になってまもなく、父が証券詐欺にあっていることが発覚しました。

2千万円以上つぎこみ、親戚に300万の借金もしていました。

母は35年以上入院したまま、兄弟はいないので一人娘の私が対応するしかありません。

その矢先、父が末期癌になっていることがわかりました。

父の年金管理をして借金返済の見通しがついた頃、余命3ヶ月の宣言通り父は他界しました。

私は息子に
「お金の心配や苦労をかけたくない」
「寝たきりになったりして迷惑かけたくない」
と強く思いました。

私が癌の一歩手前「高度異形成」発覚

病室

父を看取った矢先、私自身が「高度異形成」癌の一歩手前であることが発覚しました。

子宮全摘手術を選択しました。

幸いにも細胞は癌化しておらず、転移等の心配もなく助かることができました。

体力の衰えに危機感

手術はわずか40分で手術の翌日には起き上がり、歩く練習が始まりましたが、体力の衰えに危機感が募りました。

たった1日寝たきりだっただけなのに、起き上がるとふらつくしすぐに疲れてしまうからです。

もちろん術後1日目ですから仕方ないとはいえ、「普通の生活ができるのか」「体力は戻るのか」とても不安になりました。

歩くと振動がお腹に響いて気持ち悪くなりました。

内臓の位置が定まらずたふたふと動いているような、変な感じがしていました。

車の振動もすごく大きく感じ、路面のガタつきで伝わる振動は内臓をかき混ぜられるように響き、病院からわずか10分の自宅に着く頃にはぐったりしてしまいました。

「疲れたら休む」ことをにして、少しずつ家事をして体を慣らそうとしましたが、すぐに疲れてしまうのは、食べられる量がめっきり減ってしまったせいもあるかもしれません。

息子に「食べられるものを食べて体力をつけたほうがいい」と言われ、できるだけ食べるように努力し、退院時の説明でもらった資料の通り、術後のリハビリ体操も必死に取り組みました。

8月カレンダー

会社からもらった有給休暇は10日間で、術後の13日目には時短出勤で体を慣らして、少しずつ勤務時間を延長させていく段取りでした。

会社からは「無理しないで」と言う言葉はあるものの、「時短出勤してでも来てほしい」いう意図は理解していたので、私は回復させることに必死でした。

術後1週間の検査では、ぐっすり寝られないことや体力が戻りきらないことを除けば、経過は良く順調な回復でした。

術後13日目から出勤

ギリギリまで迷いましたが、日に日に良くなってきている実感はあったので、予定通り術後13日目から時短出勤することにしました。

いざ出勤してみると、すぐに疲れて具合が悪くなりました。

それでも少しずつ、勤務時間を延長させるようにしました。

無理のしすぎは良くありませんが、少し頑張ることをしないと向上していかないからです。

家でぐったりすると息子が心配して「会社の制度をフルに利用して無理しないほうがいい」と、半日勤務を2ヶ月くらい続けたほうがいいと言ってくれました。

「頑張ること」は「ちょっと無理すること」で、頑張り続けてきた私にとっては、とても救われる言葉でした。

「頑張らないこと」は「甘えていること」ではないと思えると、それだけで心が楽になりました。

「早く元通りの生活ができるように」と焦る気持ちを「悪化させたり長引かせては元も子もない」と言い聞かせ、「疲れたら休む」をできるだけ自分で自分を制しました。

心が楽になったおかげで、1ヶ月後にはなんとか通常勤務に戻すことができました。

老化?私の健康寿命って?

通常の生活に戻りつつも疲れやすい日々が続く中で、老化や健康寿命について、調べたり本を読んだりして考えるようになりました。

「わずか40分の手術」で「たった1日寝たきり」だっただけなのに、通常の生活に戻すまでこんなにも大変で時間がかかるとは思ってもいなかったからです。

もしもこの先「40分より長い手術」や「1日以上寝たきりになること」があったとしたら、通常の生活に戻るまで何倍の月日が必要になるんだろう・・・と怖くなりました。

「すごく老化が進んでいるからかもしれない」という恐怖心に加え、先生からの術後の影響についてのお話もあったからです。

子宮全摘出するにあたって先生からの説明は、次の通りです。

  • ホルモンのバランスが崩れて影響があること
  • それには個人差があること
  • 骨が弱くなりやすいこと
  • 不眠になる場合があること
  • ホットフラッシュになる可能性
  • 様子を見て場合によっては漢方薬の力を借りる選択があること

以前からぐっすり寝られなく、睡眠の質が落ちてきてるのを感じてましたが、術後は一気に眠りが浅く、寝た気がしなくなりました。

睡眠の質が落ちてきてるせいで、疲れがとれないのかもしれません。

加齢により、年々骨の新陳代謝が落ちて閉経後はホルモン分泌も減ることから、骨粗しょう症リスクが高まります。

血管も加齢や生活習慣の乱れにより、老化が進むと動脈硬化につながります。

何もしないでいると40歳過ぎから年々、骨や筋肉は減る一方で、あらゆる病気リスクが高くなります。

このまま何もしないでいれば日ごとに老化は進み、病気リスクが高まり発症するのを待つだけになります。

「寝たきりになったりして、息子に迷惑をかけたくない・・・!」
「何かしていかないとマズイ・・・」

死ぬことは免れませんがせめて生きている間は、寝たきりで息子の負担になることなく、病気知らずの健康でいたいと思うのです。

そのためにはどうしたらいか、ネットで情報を集めながら本を読みまくりました。

大好きな本を読むことは、枯れそうな草木が吸水して生き返るように、恐怖と不安で萎縮する私に活力を与えてくれました。

そして「できることをできるだけやろう」と、私は奮起しました。

夢と目標のためにアンチエイジングの道を

私はアンチエイジング(老化防止)に取り組むことにしました。

何もしないで日ごとに老化が進み、病気リスクが高まるのを黙って見過ごすことはしたくないし、私には夢と目標ができたからです。

夢は、ブログで体験談などの発信を通じて、同年代の方が一人でも多くアンチエイジング(老化防止)をして、病気知らずの元気な生活をする仲間になってもらうことです。

診察料と薬代にお金を使い、病院通いに多くの時間をさくことはしたくないですし、貴重なお金と大切な時間の残念な使い方に思えるからです。

誰も好んで病気になるわけではありませんが、ちょっとの工夫や取り組みで避けられるとしたら・・・?

私は実際にアンチエイジング(老化防止)取り組んでみて、効果を感じたことが発信していこうと思ったきっかけです

できる範囲のアンチエイジング(老化防止)をすることで病気リスクを減らして、健康的に過ごせて、貴重なお金と時間を有効的に使えることができたら、どうでしょう?

「こんなに素晴らしいことはない!」
私はそう思い、広めたいと思いました。

そして目標は、孫の世話を任せてもらえるようになることです。

それは体力のある、元気な健康体でいるということです。

孫が歩けるようになれば疲れ果てるまで付き合えるように、走れるようになれば追いつけるだけの体力を持たなければなりません。

孫が疲れた時に抱き上げる力や筋力がなければ、面倒を任せてなんてもらえません。

老化に負けないように、今から準備をしておかなければならないのです。

あなたの夢や目標はどんなことですか?

もしも夢や目標のない方がいたら、ぜひ見つけることをおすすめします。

夢や目標を立てることも老化防止の一つだからです。

食事と運動

アンチエイジング(老化防止)は食事と運動です。

食事は食べ物や食べ方、食べる順番、調理の仕方などで変わります。

誰もが必ずとる日に3度の食事について、「知ると知らない」「やるかやらないか」では「チリも積もれば山となる」で、大きな結果に結びつきます。

運動は有酸素運動や体操、ヨガ、ストレッチ、どれもやったほうがいいことですが、効果が多岐にわたり優れているのが筋力トレーニング(筋トレ)です。

高血圧や動脈硬化、糖尿病、筋力低下によるフレイル、骨粗しょう症、アルツハイマーなどのリスクを軽減させるために、共通して推奨されているのが「筋トレ」です

筋トレは毎日ではなく、週2〜3回取り組むだけで効果があります。

実際に私は術後2ヶ月から家で筋トレを始め、効果を感じたので術後4ヶ月後、ジムデビューをして本格的に全身トレーニングを始めたのです。

術後の体力の戻りが遅かった私が、高重量をあつかえるわけでもありません。

自分の状態に合った、できる範囲の筋トレに取り組んだことで、はっきりとした効果を感じることに結びついたんです

私は最初「筋トレ」に対するイメージや先入観があって、始めるまで躊躇していました。

ですからなおさら、同じようにイメージや先入観がある方にも、一人でも多くの方に「筋トレ」の効果と推奨される理由を知ってもらいたいと思うようになったのです。

新しいことへの挑戦

私は新しいことへ挑戦したいと思いました。

筋トレがきっかけになりましたが、他業種の転職して延200人以上の女性と関わった人間関係の経験をも含めて、ブログで発信することで価値ある情報として役立たせたいと思ったのです。

新しいことを始めることは老化防止にもなりますから一石二鳥です。

良かったこと、良かったもの、失敗したこと、うまくいったこと、学んだことなど、体験したことから発信していこうと思います。


どういう言葉を使えば伝わるのか、

どんな表現をしたらより伝わるのか、

試行錯誤しながら発信を続けていきたいと思います。

このページを読んでくださり、
ありがとうございます。

最後に、このページを読んでくれたあなたが

病気知らずの健康で、若々しく元気でありますように。